Wakagi Akatsuka Blog

ときどき、とりとめなく、なんとなく……。

黒坂圭太 X 鈴木治行「ゆらめくかたち 不定形のヴィジョン」

 2017年12月23日(土)に小金井市の現代座ホールであったこの催しはまさに参加することに意義がイベントだったように思う。その場に居合わせることに、そこで生じる出来事を身体で感じることにとても大きな意味があるイベントだったということだ。
 厳しい寒さのなか、駅(東小金井)から十数分、夜道を歩いていくと、あたりはすっかり住宅街といった風情で、催し物が開けるような場所は見当たらない。少々不安になってチラシの地図を確かめながら歩いていると、現代座はここですよ、という声が後ろから聞こえた。それとは気づかずに通り過ぎようとしているところ、持っているチラシに気づいて、ありがたいことに声をかけてくださったのだ。

 会場は座席数が80ほどの劇場で、こちらが着いたときはまだ3分の1も埋まっていなかった。どのくらいのお客さんが来るのだろうかとそのときは思ったが、開演間際にはほぼ満席となっていた。最初に話を聞いたときから、おもしろそうな、というより何かを期待させる催しのように思えていたが、同じように感じるひとが少なからずいたということか。いずれにしても、準備は整ったようだ。

 

第1部
 主催者・水由章の挨拶のあと、黒坂圭太監督の『マチェーリカ/MATIERICA』(2016)とともにプログラムがスタートした。この映画を最初に観たのはちょうど1年前、会場は違うが同じ小金井のことだった。そのときの印象や感想は別のページに書き留めたとおりだが、ひとことでいうなら、前作『陽気な風景たち』(2015)とともに新しい領野を切り拓く作品であると思えたのだった(『陽気な風景たち』をめぐってそのことを論じたのがわたしの「不定形(アンフォルム)のヴィジョン」という文章で、イベントのサブタイトルはそこから取られている)。
 その1年前、黒坂監督はこの作品のコンセプトとして、マチェーリカという名の少女の変貌について語っていた。その後、伝えるポイントを少々変えたようで、今回のチラシにはつぎのように書かれている。

アニメーションの表現に於ける未踏の領域に挑んだ。美しい絵、魅力ある物語、華麗な動き、これらは優れたアニメーション映画に必要不可欠な“三要素”と思われがちである。しかしアニメーションの語源「アニマ」には周知のように「命を吹き込む」という意味がある。私は「命」とは「限りある時間」であり、前述の“三要素”を全く含まないアプローチもあり得ると考えた。数年間にわたる新しい手法の探求の結果、所謂「アニメーション的な」結構を排除した「微動アニメーション映画」が生まれた。本作では約5,000枚の鉛筆画をたえずオーバーラップさせる撮影方法により「移り行く意識」の視覚化を目指している。

 別の仕方で説明するようになったからといって、作品それ自体が(微妙な修正はあったかもしれないが)変わるわけではない。まちがいなく1年前と同じ作品が目の前に提示されていたはずだ。しかしながら、今回、現代座ホールで体験する『マチェーリカ』はまったく別の作品のように感じられた。まるで1年前とはまったく違う作品に生まれかわったかのようだった。どんな映画でも観る環境によって多かれ少なかれ見え方はかわるだろうが、ここまでの変わり方はなかなかないのではないか。要するに「見違える」ほどだったわけだ。
 まず何よりも「スクリーン」が違っていた。今回は劇場の引割幕というのだろうか、背景の大きな幕全体に映画が映し出されていった。しかもその色は通常そうであるような白ではなく、グレー。ふつうに考えて、映画を上映するスクリーン(の代わり)としてはふさわしいものではないだろう。ところが『マチェーリカ』にとってはそれが予想外の効果をもたらした。大きな画面がいわば圧倒的な迫力を生み出すのにくわえて、グレーの「スクリーン」が不思議な奥行きを映像に与えていた。おそらく鉛筆画による抽象アニメーションというこの映画の成り立ちそのものも関係しているのだろう、映像と「スクリーン」が絶妙な調和の仕方をし、考えがおよばないほどの高い親和性を獲得してしまっていた。『マチェーリカ』はもしかすると上映環境に合わせて、変幻自在に変わりうる作品なのかもしれない。
 そのような映像を前に聞こえてくる音も違っていた。きわめて単純なことながら、きわめて重要なこととして音量が大きかった。大音量で出されるがゆえに、以前は聞こえなかった音・音楽・音響を聴き取り、感じ取ることができるようになっていた。あえてこういういい方をするなら、そのおかげでたとえたんなる錯覚にせよ、鈴木治行が何をしようとしているのかがよくわかるような気がした。それほどまでに音に迫力が、迫ってくる力があったということだ。後半に不意に訪れる大きな轟きとともに、前半の音楽を構成する、以前にもまして明瞭になった、ひとつひとつの細かい音の粒立ち、音の輪郭が印象深く感じられた。

 

第2部
 休憩のあと、河合拓始による、鈴木治行の楽曲のピアノ演奏が始まった。『同心円』(2007)、『木立』(2011)、そして『句読点 VIII』(2012)の3曲で、演奏に先立って鈴木が説明するには、傾向の違う曲を選んだのだという。どういう曲かについてもまたチラシから引いておこう。

『同心円』:同じ素材が成長しながら徐々に立ち現れてくるという形態は、実は同心円というより螺旋に近い。左手と右手は時間差のある線対称として作られている。井上郷子さんの委嘱で作曲。

『木立』:近年の新しい傾向である「伸縮もの」を試みた初期の作品。複数の原色が重なり合った状態が黒だとすると、それが徐々に分解してゆくにつれて端々に元の色彩が見えてくる。

『句読点 VIII』:今回と同じ河合拓始さんによって初演していただいた作品。「句読点」とは、連続的な流れを異物によって切断するソロ楽器のシリーズである。

 舞台に用意されたピアノはアップライトだった。少しでも会場に音が響くようにとの配慮からだろうか、鍵盤から下、脚のところの板(下前板)が外されているが、アップライトはアップライト。それも芝居の稽古がおもな使用目的だろうと思しきもので、前述のとおり会場は満席。準備が進められるのをみながら思ったのは、音は大丈夫なのだろうか、演奏を聴かせる楽器として耐えうるのだろうかというのが正直なところだった。
 河合拓始がピアノに向かい、最初に音を奏でたとき、そうした心配はすべてどこかに消え去った。こんなにきれいなアップライト・ピアノの音は聴いたことがないのではないかと思うほどきれいな音色が聞こえてきた。こちらが聞いている場所もよかったのかもしれないが、粒立ちのよい、艶やかな音が響き渡っているように思えた。
 いま書いているこの文章はまったく個人的な印象にもとづくレポートにすぎない、ということを断わった上でつづけるなら、今回このイベント全体に参加していてもっとも意識させられ、そして考えさせられたことのひとつは、音や映像の粒立ちとでもいうべきもの──映像の、あるいはそこに映し出されるものの質感などももしそう呼んでよければ──についてだった。たぶんその音や映像が具体的なかたちを取り、ひとに伝えられる(物質化される?)場所や環境や状況によるところが大きいのだろうが、このホールの座席でいま自分の身体が感じ取る、モノとしてのこの音、この映像というものを意識したし、そうしたものを体験できることのおもしろさ、楽しさ、よろこびを(あらためて)感じていた。大ざっぱに要約してしまえば、ライブ感覚を楽しんだということになるし、別の角度からいえば、「ゆらめくかたち」がそういうライブ感覚を楽しむべきイベントだったということでもある。
 偶然なのか意図されたものなのかはわからないが、鈴木の音楽も、それぞれの曲調は違っていても全体として、どこかそういう享受することの歓びを感じさせるものとなっていたのではないか、とそう思えていた。いずれにせよ、それを具体的な音として聞かせてくれた河合のピアノが会場を魅了した。(第2部に黒坂はかかわっていないが、じつは河合と黒坂のコラボレーションもひそかに行なわれていたのだ。これについてはのちほどあらためて取り上げようと思う。)

 

第3部
 プログラムの最後を飾るのは、黒坂圭太(映像・ドローイング)と鈴木治行(作曲・演奏)がタイトルにもなっている「不定形のヴィジョン」をどう具体化し、実現していくのかをその場でしめしていくパフォーマンス。

鉛筆画によるドローイング作品を連作している黒坂圭太が、自作の『マチェーリカ/MATIERICA』の音楽を担当した鈴木治行との初のライブ共演。音から、絵から、お互いのインスピレーションによって生まれた、即興によるコラボレーション。

 第1部と同じ「スクリーン」の中央・上部に黒坂のドローイングがプロジェクタによって投影されていく。その画面を挟むようにして、舞台の上手に鈴木が、下手に黒坂が座る。鈴木は客席に背を向けるようにして座り、機材を操作していく。鈴木がもちいる音の素材は、あらかじめ録っておいた(サンプリングしておいた)黒坂のドローイングにまつわるまざまな音だという。黒坂は客席のほうを向いて座り、手許の小さなスケッチブックに鉛筆で思うがままの「ゆらめくかたち」を描いていく。スクリーンに映し出されているのは、黒坂の頭の高さに設置されたカメラが捉えるそのスケッチブックの映像。
 おそらくこれまでさまざまな機会に行なってきたライブ・ドローイング/ペインティンの経験のなせるわざなのだろう、黒坂はたんに描くだけではなく、あきらかに見せることを意識しており、すぐには鉛筆を紙の上には下ろさない。最初のひと筆はどのようなものか、最初に何を描くのか、いやがうえにも期待は高まっていく。
 ゆっくりと一本の線が描かれることからふたりのパフォーマンスは具体的な進展をみせていった。ときにはゆっくり、ときには速く、ときにはシンプルに、ときには複雑に、ときには激しく、ときには穏やかに。まったく異なる種類、まったく異なるジャンルのもの(演し物)ながら、第1部と第2部と同様に、あるいは(そこで新たな作品をつくっているのだから)ある意味で当然ながらそれ以上に、観客は前述のライブ感覚(その場の感覚、そこに居合わせている感覚、作品づくりに立ち会っている感覚)を強く味わうことになる。まさに目を見張るパフォーマンスで、片時も目を離すことができない(というありふれた表現が結局はもっともふさわしい)創造の現場だった。少々大げさないい方をするなら、映画とはどういうものなのか、絵が動くというのはどういうことなのか、あるいは、音が映像に、さらにはその場所になにをもたらすのかということについてもあらためて考えさせされるような「作品」となっていた。そのような作品が生成していくさまを目の当たりにできる機会はそうあるものではない。そのときそこにいた観客はまさに幸福な少数者だったのだろう。
 黒坂圭太の映像のほうがどうしても(視覚的なものであるだけに)印象に残りがちだが、今回のイベント全体をいい具合にまとめていたのは、じつは全体をとおして「登場」していた鈴木治行の音楽だったといってよく、誤解を恐れずにいえば、その鈴木の音(楽)に乗って──あるいは乗せられて──黒坂が持ち味を存分に発揮していたのが「ゆらめくかたち」と題されたイベントだったのかもしれない。いずれにせよ、緊張感に満ちたコラボレーションが終わりを告げたとき、いつまたこうした創造的な場に居合わせることができるのだろうかと思いながら、このイベントのものすごさ、途轍もなさを強く、そして深く感じていた。

 

*終了時の挨拶。左から、このとんでもないイベントを企画・主催したミストラルジャパンの水由章、黒坂圭太、鈴木治行、河合拓始。(以下、写真は許可を得ています。)

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*第3部が始まる直前の舞台の情景

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*ふたりのコラボレーションはつづいていく。

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*終了後の黒坂の作業台

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*鈴木の作業台

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第0部? 第4部?
 ところで、以下はいわば秘話に属するようなことだが、せっかくなので最後にそれを書いて(暴いて?)しまおうと思う。(これまでは対象からそれなりに距離をおくために敬称をつけずに書いてきたが、これ以後の内容についてはいくぶん事情が異なるので、書き方も少々変えることにする。)
 終演後、片付けをしているとき、黒坂、鈴木両氏の作業台の情景を写真に収めた。そのとき黒坂氏のドローイング(の残滓)をどうするのかたずねたところ、棄ててしまうのだという。それならもらおうと思い、そこにあったゴミ袋(!)に入れて持ち帰ることにした。貴重な資料になるはずなので、すべてとはいわないが、せめて一部は保存しておくべきだろうと思ったわけだ。客席に居残っていた芸術大学の学生たちに訊くと欲しいというので、数枚ずつ差し上げたし、彼ら彼女たちの先生の著名なアニメーション作家も1枚持ち帰っていったこともいい添えておこう。
 さて、わたしが「ゴミ漁り」をしているのを見かねたのか、哀れに思ったのか、黒坂氏がリハーサルで使ったという小さなスケッチブックを持ってきてくれた。みると、今回のパフォーマンスで描かれたのと同じようなドローイングの数々が収められている。役得なのか職権濫用なのかわからないが、ありがたく頂戴することにし、いまこれを書いている。
 数時間後、打ち上げが終わり帰路についた。方向が同じだった黒坂氏、河合氏、ならびに別の著名な音楽家とアニメーション作家とともに中央線に乗っていると、話題が前日のリハーサルのことになった。黒坂氏がいうには、調律が終わったピアノを河合氏が奏でているのを聴きながら、ずっとスケッチブックにドローイングをしていたのだという。試し弾きをする河合氏はそのことにまったく気づいておらず、黒坂氏の言葉に軽いおどろきを覚えているご様子。では、それがあのスケッチブックの? と黒坂氏におたずねすると、そうだとの返事。さっそく取り出して、河合氏に手渡した。

 興味深そうにスケッチブックを開くと、河合氏はドローイングをひとつひとつゆっくりと、まるで何かを確かめるようにご覧になっていく。これははじめのほう、このへんはあとのほう、と黒坂氏が説明すると、うなずき、そして何かに感じ入っているようだった。ページをめくりながら、(正確な言葉は失念したが)心に響いてくるものがあるというようなことも口にされていた。たった数駅のあいだの出来事だったが、そのとき、もうひとつのコラボレーションが行なわれていた事実を知り、なおかつそれがそこで完結するのを目撃することができたような気もした。

 

*リハーサルのさい河合氏のピアノを聴きながら黒坂氏が描いたドローイングの一部

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ゆらめくかたち 不定形のヴィジョン
黒坂圭太 X 鈴木治行

1部 黒坂圭太(映像): マチェーリカ/MATIERICA
(デジタル 30分 2016年)
作画・撮影・演出:黒坂圭太 音楽:鈴木治行 
プロデューサー:水由章 制作:黒坂圭太/ミストラルジャパン

2部 鈴木治行(作曲): 同心円(2007年)・木立(2011年)・句読点 VIII(2012年)/ 演奏:河合拓始(ピアノ)

3部 ライブ : 黒坂圭太(映像・ドローイング)X 鈴木治行(作曲・演奏)

2017年12月23日(土)、18:00開演
会場:現代座ホール
企画・主催:ミストラルジャパン

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