Wakagi Akatsuka Blog

赤塚若樹。ブログのスペースをとりあえずここに……。

「追悼 松本俊夫 映像作家・教育者・理論家としての松本俊夫について語る」

 2017年7月16日(日)に、松本俊夫の追悼シンポジウム(小金井市公民館貫井北分館 学習室A&B)を聴きに行ってきた。パネリストは伊藤高志、波多野哲朗、黒坂圭太の3氏で、水由章が司会を務めた。「出会い」、「映像作家(としての松本俊夫)」、「教育者」、「理論家」といったテーマについて、3氏がそれぞれの思い出や考えを語るというかたちで進行していった。少し日もたってしまったが、以下、印象に残った話を手許のノートのメモをもとにまとめておくことにする。

 パネリストのひとり、伊藤高志(1956- )はわざわざ九州から来ており、いわばゲストのようにあつかわれていた。最初のテーマ「出会い」について最初に話をふられたのも伊藤だった。なんでもはじめて松本作品を観たのは大学1年、20歳のときで、そのとき「実験映画」という言葉もはじめて聞き、そういう領域があることにも目を見開かれたらしい。もっとも衝撃的だった作品は『アートマン』(1975)で、この「暴力的な視覚映画」との出会いがいわば決定的なものとなったようだ。「その後4年間、松本俊夫のコピーをしていた」といい、それは「一度しか観ていない『アートマン』に近づくための4年間」だったと振り返る。それをみずから「松本俊夫ごっこ」とも呼んでた。興味深いことに、伊藤は松本作品をとおして自分の美意識がどういうものを知ることになったとも語っていた。大学卒業が近付き、いったんは就職が決まってもいたが、そのときになって、松本が自分の通う九州芸術工科大学へ赴任するという話を聞き、松本に教わりたいあまり、内定を辞退してしまったという。そして、それから3年間松本に指導してもらうこととなり、それがあの『SPACY』(1981)へとつながっていく。

 黒坂圭太(1956- )は伊藤の『SPACY』を観たことで映像の世界へと入って行くことになった。当時、小学校の図工の教師をしながら油絵を描いていたが、いろいろと煮詰まってしまい、創作意欲がなくなっていたらしい。その頃考えていたのは、絵に時間を与えられないか、ということで、頭にあったのは音楽だった。黒坂が振り返っていうには、「音楽のような感動は具象絵画にはない。抽象なら何かできるのではないか」。そのとき『SPACY』を観て、絵を動かすことではなく、コマ撮りで絵に時間軸を与えられるのではないかと思った。とはいえ、映像のことは何もわからず、勉強できるところしてイメージフォーラムの学校をみつけ、通うことにしたという。黒坂が松本俊夫を知るのはそこでのことだ。ただし、伊藤高志の先生としてだった。その学校で松本は一度だけ授業を担当したらしいが、そのとき黒坂は大遅刻をし、遅れて教室に入ったが、ばつが悪くてすぐに部屋を出てしまったという。その後、黒坂がPFFに『変形作品第2番』を出したときに松本に評価してもらい、そこで松本俊夫という人物とようやく知り合ったことになった。

 伊藤、黒坂より20歳年長の波多野哲朗(1936- )が松本と出会ったのは1960年代のことだったらしい。当時、貿易関係の会社に勤めながら、週末に演劇の勉強会に出ていた。それは「共産党からはみ出した者が集う「新日本文学会」というところ」で、そこで、その頃映画作家としての活動を休止中だった松本と出会うことになった。ちょうど『映像の発見』(1963)が刊行され、その衝撃が大きく、波多野は会社を辞めることにしたという。松本と出会ったことにより、伊藤は内定を蹴り、波多野の会社を辞めた。同時に、波多野のおもな関心のありかがそのとき演劇から映画へと移ったらしい。その後、映画『砂の女』が国際的にも高く評価されていた勅使河原宏に「拾われる」ようなかたちで、映画『他人の顔』や草月アートセンターの手伝いをするようになる。草月アートセンターでは「前衛映画祭」(ブニュエルなど)や「アンダーグランド映画」(ケネス・アンガースタン・ブラッケージなど)のイベントの企画をした。このあたりのことに関連して、波多野はものを書くようにもなったという。そして佐藤重臣の『映画評論』に寄稿するようになり、そればかりか、シェルドン・レナンの著書『アンダーグランド映画』の翻訳も手がけることになった。波多野はこの頃を振り返って、「自己形成の時期」だったと述べている。1966年、松本俊夫東京造形大学助教授として招かれるさい、波多野は松本から手伝ってほしいといわれ、それ以来、大学教員としての仕事をつづけてきた。伊藤ならびに黒坂と松本の関係が師弟関係だとすれば、「自分は弟分だった」と波多野はいう。それは「厄介な関係」でもあった。ここで波多野は松本に並べて大島渚吉田喜重の名前を出し、彼らが「ヌーヴェル・ヴァーグ」という「反抗者」たちだったと振り返る。「反抗という点ではかなうはずもなかった」。こう述べたあとに、彼は吉田喜重が29歳で『秋津温泉』を撮ったという事実を感嘆をこめて語っていた。

 松本俊夫との「出会い」について以上のような話があったあと、会場では松本俊夫アートマン』と伊藤高志『SPACY』のフィルム上映が行なわれた。このイベントのハイライトのひとつはやはりここだった。まさかフィルムで両作品が観られるとは思っていなかった。しかもこの4人(パネリスト3人&司会者1人)のコメントつきで。こんなことはいうのも憚られるが、DVDで観るのとは何から何までまったく違っていた。

 上映のあと、伊藤は、『アートマン』と『SPACY』はそっくりで、「コピーしていた」と語った。のちほど黒坂もこれを口にするが、わたしたちはこの「コピー」という言葉の意味をもう一度考えてみたほうがいいかもしれない。伊藤はまた『アートマン』について、赤外線フィルムを使っているので色合いが違っている点を指摘し、それに関連して、赤外線フィルムを現像に出すと、ラボの人がおかしいと言い始め、実験映画のものの見方と専門家の見方に大きな違いがあると思ったことがあるという話もしていた。つづけて映画のつくり方として、図形のリズムで映画を計画していることにも注意を促していた。ほかに松本の指導についてもふれ、研究室で2、3時間話をすることはあったが、授業中はずっと寝ていたらしい。「作品を観て、いいたいことがみえていた」からで、そういうふうにしていても「温かく見守ってくれていた」という。『SPACY』、『BOX』(1982)、『THUNDER』(1982)と伊藤は3本つづけて撮ったが、最後の作品については「実験ホラーですね」といっただけだった。伊藤がいうには、松本は褒めないひとだった。褒められたのは3本──『SPACY』、『静かな一日』(2002)、そしてダンスとのパフォーマンスの『DOUBLE/分身』(2001)──だけだった。だが、「感想は聞かなかった。いわれなくてもわかっていた」と伊藤は振り返る。ところで、伊藤によれば、『SPACY』の最後の2、3分、赤い画面になっていくのは血に染まっていくというイメージなのだという。はじめはもっと全面的に赤くなっていたらしいが、松本にみせると、そこがよくないといわれ、期日(この作品は伊藤の卒業制作で、その提出の期日)が迫っていたので2日間徹夜でつくりなおしたとのことだ。

 上映された2作品について「フィルムで観ると別物」との感想を口にした黒坂圭太は、勤務する武蔵野美術大学の授業では毎年欠かさず『SPACY』を学生にみせるという。この作品は「個人映画というプライベートなものでありながら、同時にパブリックなものになっている」と語り、これと『アートマン』について、「時代」が作家に「シャーマンのようにして」表現させたものだと述べた。2作品は「両作者にとって生涯で最初で最後のもの」だと黒坂はみている。

 波多野哲朗は『SPACY』について「卒業制作とは思えない」と述べただけではなく、「師を超えている」と評価した。

 つづいて会場では、松本俊夫『石の詩』(1963)と黒坂圭太『海の唄』(1988)の抜粋が上映された。当然ながら松本と黒坂の芸術的なつながりが話題となった。

 まず黒坂がほかのふたりと同じように、松本とかかわったことで職を棄てることになったといった。小学校の教師を辞めて、当時京都の大学で教鞭を執る松本の許へと行ったのだった。伊藤は松本に指導らしい指導は受けなかったようだが、黒坂にとって松本は「教育パパ」のような存在で、「人格形成にかかわることまで、しゃべり方まで教えられた」。松本はよく黒坂と伊藤を比較させていたという。「伊藤さんが早熟の天才なら、自分は晩熟の鈍才」とみずからを評する黒坂によると、『海の唄』は『石の詩』を意識し、松本に「ケンカをふっかけるために」つくったものであり、伊藤に追いつけ追い越せというつもりでつくったものだった。だが、実際につくりはじめると、「『石の詩』の構成力に打ちのめされた」だけでなく、松本からもかなり指導が入ったようだ。ここで黒坂は松本の「高齢になってからの指導の仕方」として、脚本をグラフ化してみるというのがあったと語る。感情などに色づけをし、帯状にしたものが造形的に美しいかどうかをみるのだという。黒坂はいまアニメーション作家を名乗っているが、彼にとって、アニメーション作家としてスタートは『海の唄』にあったとも述べていた。

 伊藤高志が黒坂に出会ったのは、黒坂が『海の唄』をつくっているときだった。3000枚の写真とドローイングの合成によって作品はつくられているが、伊藤はそのときの黒坂の「偏執狂ぶりがすごかった」と振り返った。『SPACY』は写真700枚だそうだ。

 『海の唄』について波多野哲朗は『石の詩』を超えていると述べ、「実験性が不断に更新していく」点に注目していた。

 このテーマの話の最後に黒坂が『海の唄』は「松本俊夫のコピーであり、『SPACY』のコピーである」と述べていた。伊藤にせよ黒坂にせよ、謙遜の表現として「コピー」をもちいているのはまちがいないが、こうして創作の実践例を目の当たりにしながらあらためてこの言葉を聞くと、コピーとオリジナルが対になる言葉だといっても、いわゆる「反意」語、「反対」語としてではなく、いわば地続きの概念、連続した相のもとにある概念、ひとつのパースペクティヴのもとにある言葉として捉えるべきだということがよくわかる。

 つづいてテーマは「理論家、批評家としての松本俊夫」へと移っていった。松本俊夫映画作家でありながら同時に執筆も行なっていた。このことについて波多野哲朗はそれが自作の解説ではなく、自立した言説であったと述べる一方で、理論家としてエイゼンシテインのような体系をつくったわけではなく、体系を目指したわけでもないと指摘した。そこで展開されているのは哲学の言説ではなく、その都度作品をあげながら、映画のなかで生成されるもの、生々しい映画的なものを捉えようとしていたということだ。それは「動いている映像状況」に向き合うものだった。波多野はほかに松本の理論や批評について「身体性」が根本にあることにもふれ、「イメージの身体」、「映画の身体」という言葉ももちいていた。『映像の発見』はアヴァンギャルドとドキュメンタリーが主要テーマとなっていたが、そのひとつ、ドキュメンタリーがその後の松本の活動のなかでどうなったのか、というある種の疑念のようなものも表明していたことにもふれておきたい。

 伊藤高志は松本の理論という点については、「いわんとしていることが作品に結実している。作品を観ればひと目でわかる」という見方をしており、黒坂圭太は「日常会話のなかでも論理的、無駄がなかった」と振り返っていた。

 イベントもそろそろ終わりに近付き、パネリストがそれぞれひとこと「思い」を語った。まず黒坂圭太は「100分の1もしゃべれていない」といい、「人間松本俊夫について話したい」と述べた。黒坂には松本について語りたいことが山ほどあるということがよくわかったし、たとえば上映会後のトークで自作について語るのとはだいぶ違った話しぶりだったのも印象に残った。波多野哲朗は、とある出版記念会で松本が自分を持ち上げず、批判して欲しいと述べたという思い出を語り、この日はインデックスを提示する場だったと総括した。伊藤高志は『西陣』(1961)で撮影を宮島義勇(『人間の条件』[小林正樹監督、1959、1961]、『怪談』[同、1965])が担当していることに注目し、松本が20歳くらいのときの、この予算のない作品にどういう経緯でかかわることになったのかに興味があるというようなことを語っていた。

 ほかにもいろいろなことが語られたが、さしあたり以上でとどめておきたいと思う。たいへん有意義なイベントだったと思うし、映像にせよ著述にせよ、松本作品についてあらためて考える必要があると思わせるものでもあった。

 

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