W. A. Blog

ときどき、とりとめなく、なんとなく……。

「黒坂圭太 幻作&新作プログラム」

 黒坂圭太作品の上映会に行ってきた(2017年7月14日、小金井 宮地楽器ホール 小ホール)。今日は3つのプログラムが組まれていたが、仕事の都合もあって、観られたのは19時開始の「黒坂圭太 幻作&新作プログラム」のみ。黒坂作品はけっこう観ているほうだと思うが、このプログラムを構成する3作品──

 『ソナタ第1番』(1985)
 『蓄音機13号』(1993)*
 『山川景子は振り向かない』(2017)*

──のうち、2作品(*)はまだ未見だったので、駆けつけないわけにはいかなかった。
 映画はもちろん、上映後のトークもおもしろく、また興味深かった。
 以下、覚え書きを超えるものではないが、いくつか気づいたことや気になったことを書いておこうと思う。


 『ソナタ第1番』はひとまず抽象映画・構造映画、あるいはミニマリズムの時期と呼ぶことのできる、黒坂の初期作品のひとつで、限られた素材やモチーフにもとづく、限られた構図の場面を、差異をともなわせながら(執拗に)反復させ、そうすることによって映像を構成していく手法がもちいられている。
 それ自体は、この時期を代表する「変形作品」シリーズなどと、おそらくまったく同じといってよいだろうが、ときに色彩が前景化してくる点がこの時期の他の作品とは少々違っている。たとえば画面を支配する色調が、最初は青を基本としていたが、やがて赤やピンクに取って代わられるといった具合だ。

 上映後のトークで監督が語っていたところによると、1985年のPFFが正式デビューとするなら、これはデビュー前の作品ということになるらしい。おどろいたことに、この作品(の一部)をある映画祭に出したところ、なんとあの手塚治虫に激賞されて、手塚治虫賞なる章を受賞したという。


 『蓄音機13号』なる作品があることは、昨年末に京都で開催された黒坂の個展のカタログをみるまで知らなかった。その後監督から直接きいたところでは「黒歴史」だそうで、変態黒坂が「黒歴史」と呼ぶというくらいだから、ふつうに考えて、あまりにも普通の「白」い作品か、あまりにもへんな作品のどちらかなのだろうと想像され、いったいどんな作品なのかと逆に興味津々だった。
 青みがかったモノクロームの実写(にもとづく)映画だった。しかもサイレント。物語らしい物語はないが、蓄音機の動きとそこで描かれる場面になんらかの関係があり、そういう意味ではシュヴァンクマイエルの『家での静かな一週間』に近いものが感じられなくもない。映像の佇まいは、むしろ20世紀前半のいわゆるダダ映画やシュルレアリスム映画を彷彿とさせるところもあった。黒坂にはめずらしくクレイ・アニメーションが前面に出て来る個所もあり、そこはときにブルース・ビックフォードを思い出しもした。『緑子/MIDORI-KO』に通じるものもあり、いつかじっくり検討してみたい作品だった。


 『山川景子は振り向かない』は現時点での最新作。『陽気な風景たち』(2015)や『マチェーリカ/MATIERICA』(2016)と同じ傾向の抽象ドローイング・アニメーション作品(今回の上映会では、この3作品を「三部作」として提示している)。この2作品より尺が短く、また動きに変化があるために、誤解を恐れずにいえば「わかりやすい」かもしれない。いずれにしても、黒坂の「いま」をしめすこの3作品は新しい映像世界を切り拓いている作品だと思う。
 トークで監督が説明するには、上記の京都の個展のためにつくった作品で、制作期間は1か月半。作画は1週間程度だとのこと。
 そういえば、途中、唐突に「顔」が出現するが、これはあるパターン化した流れがつづくと、いきなりそれを壊す(壊さざるをえなくなる)という黒坂映画に特有の瞬間だったようにも思う。


 ほかにもいろいろと書くべきことがあるような気がするが、あとの2作品はまだ1度しか観ていないので、それについてはいずれまたということにしたい。

 

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