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ときどき、とりとめなく、なんとなく……。

「山村浩二 右目と左目でみる夢」

 8月にユーロスペースでロードショー公開される「山村浩二 右目と左目でみる夢」の試写会へ行ってきた(2017年6月19日)。
 とても心地よい鑑賞体験だった。暑い最中に渋谷に行くのは本当ならできれば避けたいところだけれど、ぜひとももう一度スクリーンで観たいと思っている。


 今回、上映予定の9作品を観て、いろいろなことを感じ、そして考えた。ときには過去に観た山村作品のことを思い出し、それと結びつけたり、違いに注意を払ったりしながら。
 そのなかでもくりかえし思い浮かんできたのは、愛嬌のあるいびつなものたち、という言葉と、創り手の意図を超えたところで展開する知的営為、という言葉だった。とはいえ、全体を貫く主題ないし特徴としてそれらがあげられるといったことでは必ずしもなく、今回の上映作品をまえにして、あくまでも自分のなかに湧き起こってきたイメージがそういうものだったということだ。あるいは、そういうふうに表現できるものがこちらをとらえたとでもいうべきか。


 『怪物学抄』はタイトルからして、ふつうならざる生き物の到来を告げており、描かれる独特な怪物たちはみな愛嬌があっておもしろい。絵本としても刊行されるとのことだが、作品としてそれもすんなり納得できるできばえとなっている。


 これはたしかにそうだが、この作家にあってよりいっそう興味が惹かれるのは、たとえば『Fig(無花果)』、『古事記 日向篇』、あるいは『サティの「パラード」』のキャラクターたちのように、ふつうの生き物たちがふつうとは違ったかたちで描かれること、ひとことでいえばデフォルメの仕方のほうだ。異形を異形として描くのは、いわばふつうの手続きだが、こうした作品においてはたいていの場合、あらゆる生き物たちが、山村に特有の仕方でいびつなものにされ、そのうえで画面に登場してきている。そして、かたちがたんにいびつになっているだけではなく、『怪物学抄』同様に、そのどれもが愛嬌のある、まさに愛すべき存在として姿をみせるのだ。


 意図的にかたちを崩すような方法で創られたものは、ときにあざとさを感じさせてしまうことがあるが、山村作品ではいささかもそのようなことはなく、むしろ飄々としたおもしろみとでもいうべきものがある。『鶴下絵和歌巻』、『鐘声色彩幻想』といった異なる手法で創られた作品もふくまれているとはいえ、前述のような作風が招き寄せるそういった雰囲気、ムードが、今回の上映作品全体を包み込んでいるといえるかもしれない。観ているときに心地よさをもたらす要素のひとつはまちがいなくこれなのだろう。


 その一方で、上映作品を観ていると、創り手の意図を超えたところで展開する知的営為とでもいうべきものが、背景に、あるいは根底にあることが感じ取れる。いいかえれば、センスのみに頼るのではなく、知的に作品を構成していっていることがわかるということだ。そのことは個々の作品の主題(古事記俵屋宗達、サティ、マクラレンなど)にも、あるいは個々の作品の設定(中世ヨーロッパの学者による怪物の公文書)にも見て取ることができる。


 音楽の演奏家ならおそらくヴィルトゥオーソと呼ばれるような卓越したアニメーションづくりの技量、技術とともに、おそらくこの知的意匠が山村作品を一段階上のランクに引き上げ、さらにいうなら、ほかの追随を許さないものにしているのだろう。今回はそれにくわえて、音楽的センスないし音楽の妙味がいつも以上に際立っているという点も指摘しておいてよいかもしれない。


 「山村浩二 右目と左目でみる夢」を構成するこうした作品たちは全体として、いつも以上にDVDやブルーレイで持っていたいと思わせるものばかりだった、ということも個人的な印象ながらいい添えておきたいと思う。

 

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山村浩二 右目と左目でみる夢(公式サイト)

 

監督・山村浩二

怪物学抄 2016、6分10秒、音楽・ヘンデル
Fig(無花果) 2006、4分31秒、音楽・山本精一
鶴下絵和歌巻 2011、1分56秒、音響・笠松広司
古事記 日向篇 2013、12分06秒、音楽・上野耕路
干支1/3 2016、2分00秒、音楽・冷水ひとみ
five fire fish 2013、1分28秒、音楽・モーリス・ ブラックバーン
鐘声色彩幻想 2014、3分38秒、音楽・モーリス・ ブラックバーン、エルドン・ラスバーン
水の夢 2017、4分15秒、音楽・キャサリン・ヴェルヘイスト
サティの「パラード」 2016、14分12秒、音楽・エリック・サティ

 

www.youtube.com

 

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