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ときどき、とりとめなく、なんとなく……。

黒坂圭太監督最新作品『マチェーリカ/MATIERICA』(2016)

 今日[2016年12月27日(火)]、黒坂圭太監督の最新作品『マチェーリカ/MATIERICA』の関係者試写会があり、とくに関係者というわけではなかったが特別に参加させていただいてきた。

 何かとんでもないものを観た/観せられた、というのがエンドクレジットが終わって最初に思ったことだった。ひとことでいうなら抽象映画、抽象アニメーションということになるだろうが、これまでに創られた作品のどれにも似ていない。

 あえていうならジョーダン・ベルソンあたりを思い起こさせるような、自然(たとえば大地、大気といったもの想像していただきたい)の生成変化を視覚化・映像化したものと表現できないこともないが、決定的に違っているのは、少なくとも視覚的な側面については鉛筆によって描かれたドローイングにすべてがもとづいているという点だ(黒坂監督は以前、鉛筆が自分にとっての「カメラ」だといったことがある)。

 そういう意味では DIR EN GREY のミュージックヴィデオ『輪郭』(2012)の後半部、よりわかりやすいかたちでは『陽気な風景たち』(2015)に直接連なるものだといえるだろうか。実際にこの作品とともに現出しているのも、文字通りの意味でも比喩的な意味でも「風景」と呼べるだろう。いずれにしても、『緑子/MIDORI‐KO』(2010)がひとつの完成形となるドローイング・アニメーションの形態から解き放たれるようにして、あるいは逃れるようにして黒坂監督が新たな領野に踏み込んでいっていることは疑いを容れない。

 いや、それだけではない。黒坂監督にとって新しい段階というだけでなく、映像/アニメーション作品の形式、あり方としても新しいものが創り出されてしまっているのではないだろうか。たぶん観る者を選ぶところがあるだろうし、さまざまな意見が出されるだろう(個人的には批評や評論に、あるいは映像研究に携わる者がこれをどう評価するかという点がいまからたいへん興味深い)。しかし、新機軸を打ち出す作品にとってそれは宿命のようなものだし、この映画にとってはむしろそのこと自体がひとつの勲章となるにちがいない。

 この作品についてもうひとつ注目しなければならないのは、鈴木治行氏の音楽が果たしている役割の大きさで、これなくしては『マチェーリカ/MATIERICA』は成立しえなかったのではないかとさえ思えるほどだ。「映像と音楽のコラボレーション」とはよくいわれる謳い文句のひとつだが、たんにそこで両者が同居しているだけで、共同作業/シナジーが実現されていない作品も少なくない。

 だが、この作品についてはこの表現を使わざるをえない。あえて分けるならそれぞれ視覚的側面と聴覚的側面を担っている映像と音楽(むしろ「音響」と呼ぶべきか)が、ここでは一方が他方に従属するのではなく、それぞれみずからを主張しながら、結果として『マチェーリカ/MATIERICA』と呼ばれるものを創りあげており、観ていると、それを目撃する場として作品が存在しているようにも思えてくる。そのスリリングな共感覚的協働は類い稀な経験をもたらしてくれるにちがいない。

 ところで、タイトルの「マチェーリカ」とは、黒坂監督の作品コンセプトにおいては主人公の少女のことで、この作品は彼女が「覚醒」、「思考停止」、「自己崩壊」、「復活」という4つのステージをへて「変貌」していく「物語」として構想されている。しかしながら、前述のとおり、これは抽象映画であり、それゆえにマチェーリカはいわゆる人物として描かれるわけではない。彼女は「カオスな空間を彷徨う一筋の“筆跡”」であり、その変貌を、鉛筆という「カメラ」をとおして黒坂監督は凝視し、映し出していくのだ。

 こうした作品コンセプトがどう実現されてるのかを検証していくのもひとつの見方となるだろうし、はじめから無視してしまうのも、作品との向き合い方としてまったくまちがってはいない。それをどう受け取るにせよ、黒坂圭太がまたしても「とんでもない」作品をつくってしまったという事実だけはかわることがない。

 

(この記事は、旧ブログ「Poetisme nocturne」[http://d.hatena.ne.jp/wakagi/]から移動させたものです。)